天体による永遠

ふれあい動物広場の一袋100円のヤギのえさをふれあい動物広場ではないヤギに配って回ると普段ふれあわれてないので喜び方が全然違う。


いつものことだけど大作の制作をしているとこれが僕の最終回かもしれないと思う。

そう思える制作過程の中にいる今日を嬉しく思う。

それはちゃんと力を残さず発揮出来ていることを意味している。


大きな結果が出たことにではなく、
出来ていく作品を見ているだけで未来を確信できる状態。

「これを発表したら大変なことが起こる。」と僕は思う。

結果を出すことよりもこういう状態の中にいることを大切にしなければならない。


自然と作品がこぼれ落ちて結果もこぼれ落ちて僕は前を見続ける。



しまった。ヤギの栄養バランスを飼育員は計算しているはずだ。

安易にヤギを喜ばせて感謝されたことを僕は後悔した。

ヤギと飼育員の分も取り戻せるくらい素晴らしい絵を描こう。

どんな失敗も僕はたった一枚の絵で取り戻せる。

僕は画家だから。



 
余分なものを削ぎ落としていって本当に大事なものだけを残したシンプルなもの。

デザインも芸術もあらゆる分野の到達点がそこにあるように思える。

足すことより引くことの方が難しい。


本当にそうだろうか。


難しいと言いながらも、「例えば?」と自分に問うと、いくつもの前例が浮かぶ。

それはすでに誰かが言ったことでありどこかで見たものではないだろうか。

この感じだとそれが出来る人はたぶん世界に1万人くらいはいるだろうなと思う。

一万人いたって構わないし、地球上にわずか1万人しかいないとも言える。
ただ、その分かりやすい上級者への道みたいな方向性に簡単に飲み込まれていってはならない。



今日はその先へ行こう。

まだ誰も到達してない一人目の世界へ。


自然界の景色をよく見てみよう。

隅々まであらゆる物質で埋め尽くされているのに余分なものなど1mmも見当たらない。

シンプルなデザインを目指すことはこれにくらべたらなんて簡単なことだろう。

あの枝はいらない、あの木はいらない、あの森はいらないとか言ってると人類は本当にだめになる。


神とデザイナーと芸術家。
とか思いながら動物園の中をまた歩く。


お土産のおかしの試食がいくつか並んでいるように見えた。

口に入れた瞬間、僕は異変に気がつく。
味を全く感じない。
店員のおばちゃんが何も言わずに僕を見ている。
よく見ると僕が口に入れたのは福引きのガラガラの玉だった。
唾液だらけの玉を返すのも良くないのでそのまま僕は味のない球体をなめながら歩いた。
おばちゃんが視界から消えたところで僕は玉を手のひらに出してみた。
とてもおいしそうな美しいただの球体。
味はない。


地球とただの球体を比べてみよう。


僕はすぐにただの球体を展示して、何もないことで逆に無限のイメージを内包させるとか言いたくなる。
そして次にこう思う。

それは過去の誰かが言ったことではないか。
それはどこかで見た誰かの作品ではないか。


余分なものを削って一つのシンプルな球体にするより、

調和させて一つのシンプルな球体にすることの方が遥かに難しく奇跡に近い。


それから目を背けて楽してるんじゃないか。
必要ないものを削らない為には、必用とする為にそれに対して厳しくなってしまう。
そこから目を背けてはならない。


それを余分だと言って削るより、活かして調和させたシンプルを選ぼう。



氷を火で水にして、水で火を消すような考え事が続く。


考え過ぎずにキリンを見て帰ろう。



宇宙は、至る所に中心があり、表面がどこにもない、1つの球体である。



5月5日~10日、銀座のギャラリーゴトウにて個展をします。

ギャラリーゴトウ http://www.gallery-goto.com