孤独の水面

プールには誰もいなかった。

止まった水面が張りつめている。
二人の監視員が監視する物もないままそれを見つめていた。

僕はその水色の鏡の中に足を踏み入れる。

誰もいないプールの中は空気のように澄んでいた。

ひとりでプールを往復していると水族館の展示物の一つのような気分になった。

最近僕は3年間1日も欠かさなかった日記を辞めた。
発見やインスピレーション、やりたいと思ったことはこの3年間、毎日メモしたし実行した。
紙に書くとやりたかったことはやらなければいけないことに変化した。
やりたいことはやりたい時に思い出す。
その方が今の僕には合っている。

聖書の達人から電話がかかって来る。

代わる代わるやってきていた使者は最近僕が聖書の達人と呼んでいるこの男一人に落ち着いた。
男は僕のどんな難しい質問に対しても一瞬でその答えにあたるページを開くことが出来た。
だいたいその答えに納得はいかないのだけど、達人のその動きを見るのを僕は気に入っていた。
男の持つ聖書は少し前までの僕の日記を連想させた。


前回。

「あなた達はいつも不意打ちでやって来る。僕にはあなたと話したくない日もある。」
僕はいつも突然やって来る聖書の達人に少しいらいらした。
「私たちのこのやり方は昔からの正式な方法に従っているのです。」
男は迷いのない笑顔で言う。
「それは昔は電話がなかったからです。今と昔は違います。」
僕は言う。
そういうわけで僕たちは電話番号の交換をしてしまった。

少しそれを後悔しながら僕は電話に出る。
「今お忙しいですか?」
僕はろうそくを鍋で溶かしている最中でとても忙しかったのだけれど
説明が面倒なので大丈夫ですと答える。

男は人の死についての項目を朗読し始めた。
僕は頭が追いつけず今日のプールの監視員のようにぼんやりとそれを聞いていた。


「何か聞きたいことはありますか?」
聖書の達人は言う。
「それを信じるあなたは例えば死ぬことが怖くないですか?」
僕は尋ねる。
「私には怖いことなど一つもありません。」
男は少し考えた後にそう答えた。


僕は水の中でそれについて考えてみたとき、8年も前の記憶が蘇ってきた。



それは8年もの間、書き続けた日記の遥か一番下に埋もれた記憶であり、
そこから幾重にも枝分かれした論理に丁寧に梱包された記憶でもあった。


「今日も何百万人の人々が僕の絵を見ることなく死んで行く。
 僕はそれが凄く悔しい。急がなければならない。だから僕は今すぐ画家になる必要がある。」
8年前の僕が言う。




僕を動かすエネルギーの根源は残念ながらそこにある。

つまり僕は僕以外に誰もいなければ絵を描かない。

ちょうど今日のように一人でプールに浮かんでいるかもしれない。



誰もいないプールの水は僕の心臓の鼓動さえも波紋に変えて、対岸に伝えた。