画家の間接的努力による自分自身のコントロールについて

同じものを描いたとしても描いた人の数だけ違う絵が生まれる。

同じものを描いたとしても、今日の僕と明日の僕とでは違う絵が生まれる。

同じ今日でも、僕が何をして何を思うかによって、違う絵が生まれる。


今日の僕、明日の僕、又は助手の誰か、に何をしてもらうかの1つ1つの選択によって僕の作品は作られるし、選択する要素の質が高ければ高いほど選択肢の幅は広がる。


作品を製作する間、僕は僕を作品を制作するにふさわしい状態に保たなくてはならないし、保てない僕ですら効果的に使うセンスを磨いていなければならない。しかもそれは直接的努力によってではなく間接的な仕掛けによってほとんど無意識の状態でそれをやる必要がある。

この作品を描くことでようやく、僕は画家になるんだろうなと。いつも思う。


壁画の巨大な重圧から解放された心地よさ。
それとは反対に体験した重圧があまりに大きかったのでただ描くのでは物足りなくなっている違う種類の課題。


「これまでのことは全て、これからの為のドローイングにすぎません。」

自分自身であれ以上のプレッシャーを自分にかけることが出来るのは一回きりだと思う。


家族みんなで広島の壁画を訪れた。
予想していたとおり、僕の感覚はすでにあの時よりもだいぶ先まで進んでいる。
あとはいかにして自分のコンディションをあの時以上に整えることが出来るかどうかだと思う。


「自分で自分に重圧をかけ続けられる時間には限界がある。」

僕の自律神経が言う。

「結局今年も今年にかかっている。」
と僕は言う。

「そのとおり。」

間接的な仕掛けがうまく機能し始めている。