記憶の中での制作

この絵の前から人々は動けなくなる。

その前に僕が今、動けなくなっているように。

これでは他のことが何も出来ない。


僕は作品を裏返しにした。

亜矢子と咲哉は僕が調子が悪いのかと少し心配そうにした。
実はその反対で、今の調子の良い状態をさらに倍にする為の作戦だった。


描きかけの作品を裏返しにして見えないようにしてから6日目。
あれから一度も見ていない。
自分の作品が見たくてたまらない。
次の美術の時間を楽しみに待つ少年の気持ちみたいだ。と思った。

作品を裏返しにしてから、記憶をたよりに製作中の作品のことを考えるようになった。
頭の中だけで作品制作の続きを進めて行く。

その間、アトリエの床を青から黄色に塗り替え、それが失敗だったのでさらにライトグリーンに塗り替え、健康診断を受け、いくつかのオフィスバクテリアのデザインをパリへ送り、何件かの打ち合わせに出席し、5個のトマトの苗をベランダで育て、トマトの実や足を引っ張りあう政治家たちへの怒りが黙って熟すように、裏返しにされたままの作品が静かに熟していくのを僕は感じた。

不思議なことに作品制作を実際には進めてはいないのに、製作中よりも進んでいる気がする。

記憶は美化されるので次に作品を裏返した時、いろんなことに僕は気付く。


「自信を持って大丈夫です。」
歯にフッ素加工を施していた歯科医師が言った。
僕は歯磨きがとてもうまいらしい。
作品と関係なくてもこういう言葉を僕は聞き逃さない。


明日の朝、作品を裏返そう。
待ちに待ったクリスマスの朝にプレゼントの包装紙をはがすみたいに。