りんご

一匹のハエがアトリエに飛び込んできた。
そのハエは僕の運動神経を遥かに上回ったので僕の攻撃の全てをかわした。

山手線。
重い荷物を持った老人がふらついている。
重い荷物なんて持たないで下さい。と僕は思う。

ハエは一日中、僕の周りをつきまとった。
歯を磨く時もお風呂に入るときもついてきた。
ベランダに出るときは一旦僕と外に出てからまた僕と一緒に中へ戻った。
これが小鳥ならどんなにかわいいだろう。
と思ったとたんハエに愛着が湧いてきた。

山手線。
僕がもし老人の荷物を持ったら、僕は親切な人だと思われる。
車内に充満するその空気が嫌だった。僕は少しの偽善も許せない。
そこで僕はひらめいた。
身内という設定でいこう。それなら荷物を持っても当たり前だし、特に親切なわけでもない。
僕は声もかけず当たり前のように荷物を奪うと老人の横を歩いた。
それが完璧に自然だったので老人も全く驚かず無言で僕の横を歩いた。

ハエは寝室にまでもちろんついてきた。
僕にはもはや殺す気など全くない。
それどころかおやすみと僕は声をかけた。

老人の家はなんと僕の家の近所だった。
そういうわけで僕たちは一緒に電車を乗り継ぎ、バスが無くなっていたので家まで一緒に歩いた。
青森までりんご狩りに行った帰りだそうで、
話していると僕まで旅行の帰りの電車の中にいる気持ちになった。
僕は秋晴れのりんご園を旅していた。

夜中。
ハエの羽音のせいで目が覚める。とても不愉快だった。
そしてハエが顔にとまった。許せない。
衝動的に、殺虫剤でハエをしとめた。

老人の家の前。
僕は昨晩のハエの話をしていた。
「僕のやさしさなんてこんなもんです。」
僕は老人に言う。
老人はそんな話は全く聞いておらず、りんごでいっぱいのカバンから一つ選ぶと
りんごを僕に差し出した。
「よかったらまた今度一緒にお散歩しましょう。」
老人が僕に言う。
「ありがとう。」
僕はりんごを受け取る。

採れたての味がした。